【目次】
サッカーと影響力
日本と南米のサッカーの何が違うかといえば、「影響力」が違う。
南米や欧州は、人がサッカーに与える影響が、日本とは桁違いだ。
例えば、観客が試合中にバックパスをした選手に対して激しくブーイングをする。その影響力が強烈であるが故に、ピッチの選手に対して攻撃の意思を強制する。日本にもそのような場面はないことはないが、欧米ほど、観客の影響力はない。
人々のサッカーに対する強い意思の総量、そして感情の表出という部分において、日本と、海外のサッカー強国は大きく異なる。
例えばブラジルの観衆のこの影響力は、ピッチ上にまで及ぶ。この影響力が選手たちのプレーを強制してしまう。
本来バックパスが正しい局面においても、観客の意思が「攻撃」に向いた場合にプレー判断に影響することがある。
ブラジルリーグセリエAのフラメンゴ×サンパウロFCの試合。結果はホームのフラメンゴが3-1で勝利。会場は51,000名の観客動員。ワクチンパスポートもマスクも不要です!この大歓声がほんとに迫力ありすぎてとにかくすごいの一言。。。 pic.twitter.com/lI4SzZ7kb9
— 猿渡 悠 | 7/11迄🇧🇷→8/20迄🇺🇸 (@yusaruwatari) 2022年4月17日
感情の表出、意思の強さがサッカーに与える影響は大きい。
その点において、日本は感情の表出、意志の弱さがサッカーにおいてマイナスに影響している可能性が高い。なぜ感情が出せないか、なぜ意思が弱いかというのは後述する。
日本の場合、普段デフォルトで感情が抑制されているので、感情を表現できるようになる必要がある。自分の能力を引き出すために。サッカー強国との差は、ピッチ上での表現力。これは意志と意図の強さ、感情表現、その上にコミュニケーションが成り立つ文化の違い。
— Kei Imai (@Keivivito) 2022年6月17日
退屈なゲームには「意思」がない
意思とは、こういうプレーがしたい、勝ちたい、点を決めたい、その為のアクションの源泉になるもの。その意思の強さが試合の結果を左右し、更に観衆を熱狂させる要素になる。
なぜなら、退屈なゲームには「意思」がない。
ピッチ上の一人ひとりの選手の意思の表出を、観衆は敏感に感じ取る。消極的で気持ちが入っていないプレーは見ればわかるし、時に対戦相手の意思に押され、相対的に意思の弱さが露呈するプレーに対しても、容赦なく意思がないとジャッジされる。
それがフットボールである。
フットボールの面白いところは、個々の意思の総量が、チームの意思となって表出されることである。
個々の意思が、繋がっている状態ではじめてチームとして機能する運動体になり、個々の意思が、繋がっていない状態ではチームとして機能しない。
一人ひとりがどのように、どんな繋がり方をするかでチームがつくられていく。そこにはコミュニケーションが不可欠である。
しかしながら、コミュニケーションという文脈においても、我々日本人はサッカーにおいて相対的に弱い。詳細は下記に書いた通り。
サッカーを伝えるということ
日本の育成年代では繋がりながらプレーする術を教えられる指導者が少なく、むしろ個を伸ばすことを目的にサッカーを教えてしまうケースが散見される。それはもはやサッカーではない。繋がること、コミュニケーションがないものはサッカーではない。
サッカーにおいて、「個」というのは、集団の中でしか育まれない。
日本社会は集団の中で育まれる個性をどのように捉えるかというと、協調性ではなく、どちらかというと同調性である。
みんなできているのに、なぜあなたはできないの?みんなと同じようにしよう。みんなと違うことはかわいそう。ルールはきっちり守ろう。
このような教育が強すぎるが故に、人と違う個性や行動をするといじられたり、のけものにされる。
また、サッカーの育成年代に目を向けると、子どもたちが親や指導者にプレーを、意思決定を強制され、矯正され続けることで子どもたちの感情は損なわれていく、それ故に好奇心も、主体的なプレーも「意思」も育まれにくい。
サッカーを伝えるために必要なことは、まずサッカーを正しく捉えること。そして個性は集団の中で育まれるということを知ること。それはつまり一人ひとりの強みと弱みを表出させながら、コミュニケーションを深め、チームとして機能させていくアプローチを積み重ねていくこと。
とても時間がかかり、労力がかかる。
意思を育む社会・教育
また、意思はどのように育まれていくかという点において、教育文化が大きいと考えている。
日本の教育は、意思を育むという文脈において、非常に弱い。なぜなら全体主義的な教育であるから。言われたことをしっかりと守れること、”周りに上手く同調するため”という文脈では、自分の意思は集団に溶かされる。
更に強烈に作用するのが、他人に迷惑をかけてはいけないという呪縛。
こうして空気を読む文化、同調圧力文化が醸成される。
私たちは、意思を育むための力が、サッカー強国と比較して恐らく弱い。
おかしいことをおかしいと言えないのはなぜか、
おかしいことに気が付きにくいのはなぜか、
自分の意思を表出するというのはどういうことか、
感情を表現したいのにできないのはなぜか、
コミュニケーションが深まっていかないのはなぜか、
これらは、日本社会で育まれた私たちにとって必然的な問いなのではないかと思う。
私たちは、意思を育む社会、教育を目指すべきだと思う。
なぜなら、サッカーには意思の力が求められるから。
なぜなら、意思の力は、生きる力でもあるから。
サッカーが強い国との差は、フィジカルや、技術など、かいつまんで議論しても無意味である。
サッカーは社会で育まれる。その社会によって、表現されるサッカーが異なる。
それ故に、サッカーはサッカーだけを見ては本質は見えない。