サッカーの育成年代の大会に足を運ぶ度に、信じられない光景を頻繁に目にする…とこれまでも何度も書いてきました。
先日とあるチームのセレクションを観る機会があったのですが、その時にも驚いたことがありました。
コーチたちはどんな子どもたちをセレクトしているのか、どんなところを評価するのかをじっくりと見ていたのですが…
選ばれていくのは身体がでかい子、または足が速い子、キックが強い子など身体能力、運動能力が高い子のセレクトが目立ちました。
ボールを持った時の雰囲気、ピッチでの佇まい、ボールとの関係性…このあたりを見る目を持つ大人があまりにも少なすぎるのではないだろうか。
実際にそこにいた何人かは上記にあてはまる子どもだった。残念ながら選ばれることはなかったけれど。(見る目のないコーチの元でプレーしなくて逆に良かったと思う)
才能を見る目がない大人たち
本当に見るべきは今ではなく未来です。
身体能力、運動能力は体の成長にともなって差はなくなっていくけれど、そもそも着目すべきは、子供達にもともと備わっている"才能"や"個性"であり、それを見なければなりません。
残念なことに、才能を見る目がある大人は少ないということです。
多くの育成年代の現場で才能ある子供たちが潰されています。
出る杭は打たれるという日本の特殊な文化の影響なのでしょうか、同調圧力の影響もあるのでしょうか…
指導者の言うことを聞ける従順な子供が良い選手とされ、言うことを聞くことのできない子供は淘汰される、あるいは潰される。
この傾向は育成年代をみていれば顕著です。いや、社会に出ても同じかもしれません。
自分の頭で考えることができる人材は、おかしいこと、理不尽な仕組みに気がつく。
そして声を上げるわけですが、既得権にとって都合の悪いことは、ことごとく潰されます。
社会はそのような構図になっていると思います。(多くの場合)
しかし、従順なイエスマンを育てる時代はとうの昔に終わっているし、そのような教育はサッカーというクリエイティブなゲームにミスマッチなのです。
それゆえ、多くの才能は淘汰されてきました。
今尚、状況が変わらない理由は、時代遅れな指導者が多いからなのではないでしょうか?
サッカーの本質を理解していない大人が多いからなのではないでしょうか?
育成年代のサッカーの大会で発せられる指導者の声を聞くかぎり、そう思わざるをえない。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…