違うことには意味がある
人間が作り出したものは揃っています。
鉛筆の一ダースの本数がバラバラでは困ります。
一メートルのものさしの目盛りが、一本一本違っては困ります。
人間は、バラバラな自然界の中で、均一な世界を奇跡的に作り上げてきたのです。
しかし、自然界では、違うことに意味があるのです。
あなたと私は違います。決して同じではありません。
ただし、違いはありますが、そこに優劣はありません。
例えば、足の速さは、それぞれ異なります。
ですから、足の速い子も遅い子もいます。
これが運動会になれば、足の速い子は一位になるし、遅い子はビリになります。
しかし、それはそれだけのことです。
自然界から見たら、そこには優劣はありません。ただ、「違い」があるだけです。
人間は優劣をつけたがります。しかし、生物にとっては、この「違い」こそが大切なのです。
足の速い子と遅い子がいる、このばらつきがあるということが、生物にとっては優れたことなのです。
<引用文献>
ものづくり大国と呼ばれる所以なのでしょうか。
私たちの国は、一つの基準に揃えること、みんなで一緒に同じように表現すること。そのようなことは得意で、美しいと感じる価値観が強い感じがします。
それ故にものづくりにおいては本領を発揮しやすかったのかもしれません。
一方で、バラバラな個性を、それぞれを損なわずに、有機的に連動するようなチームスポーツ、組織運営に関してはどうでしょうか。
ビジネスの面では、日本の企業はグローバル社会で後手を踏んでいます。スポーツに関しても、団体競技よりも個人競技が強い。
学校教育はどうでしょうか。
不登校の数が大変なことになっているようです。これは要因を一概に言えませんが、少なからず画一的な教育が影響しているように思います。
不登児童生徒の割合は増加を続けていて、中学校では既に20人に1人が不登校になっていく状態
子どものサッカーで大事にしたいのは「違うこと」「ばらつき」
以前、日本で行われたU14の国際大会を観に行きました。
某Jクラブの下部組織と、アルゼンチンのボカジュニアーズの下部組織の試合を見た時のことです。
某Jクラブの下部組織は、全体的に体格も近く(皆背が高かった)、プレースタイルも近く、選手個々の特性が見えにくいチームでした。
一方でボカジュニアーズの子たちは、体格もでこぼこ。プレースタイルも多様で強烈。
そんな構図だったので非常に興味深く面白い試合だったのですが、選手選考の基準の違いを感じました。
※限定的な情報なのであくまで見て感じた主観を述べています
Jの下部組織は、目先の試合に勝ちやすくするため?選手たちが画一的な基準で選考されているように見えました。
ボカの選手たちは、一人ひとり、ポジション毎に伸び代、可能性を見て選考されているんだろうなと思いました。
要はこの選考する側の大人の価値観の違い、文化の違い、文脈の違いなのかもしれないなと思います。
どちらがよいのかは、サッカーというゲーム特性を踏まえると自明です。
サッカーにおいて、何を大切にすべきかを真剣に慎重に考えるとわかります。
>>アルゼンチンではジュニアチームのスタッフが日本の何倍も多い - 大人になってから学ぶサッカーの本質とは
冒頭にご紹介した本の引用にあるように、生物の本質というか、より野生的な感覚が私たちには不足しているのかもしれません。
自然界から見たら、そこには優劣はありません。ただ、「違い」があるだけです。
人間は優劣をつけたがります。しかし、生物にとっては、この「違い」こそが大切なのです。
足の速い子と遅い子がいる、このばらつきがあるということが、生物にとっては優れたことなのです。