僕らはリフティングの回数、コーンドリブルのスピードなど、あらゆるボール扱いのテクニックを競ってきた。
時に、宿題を出され、目標設定をされ、それをクリアすることに喜びを見出しながら、テクニックを磨いてきた。
それは、試合に勝利するという目標とはまた別のものとして捉えられ、サッカーの上手さの指標とされてきたように思う。
サッカーにおける技術が、テクニックとスキルに分類され、スキルが試合の勝利に貢献するものであるならば、僕らはテクニックを磨いてきたけれど、スキルはあまり磨いてこなかったと言えるかもしれない。
つまり、サッカーにおいて、試合に勝つことと、サッカーが上手くなることが繋がっていないと言えるのではないかと思われる。
リフティングが上手い人やボール扱いが上手い人を見て、サッカーが上手いとされる風潮が強いのは、上述した理由がひとつある。
サッカーが上手いとはどういうことか
サッカーとは11人でプレーするもので、相手がいるスポーツである。観客も審判も試合に影響を及ぼすので、それらを踏まえてサッカーを捉えなければならない。
つまり、僕らはサッカーのテクニックを磨いてきたけれど、試合の中で役立つスキルを磨くトレーニングは不足していた可能性が大いにある。
では、スキルとはなんだろうか。
仲間とプレーするコミュニケーション、相手と駆け引きする力、これらを踏まえて考える必要がある。
仲間の位置を把握するための視野、それを確保するための体の向き、なにを、どのタイミングで見るか、を考慮したトレーニング。
相手のプレスがかかっている中で、いかにボールをコントロールするか、その為のスキマのつくり方、時間のつくり方、これらが培われるトレーニング。
例えばこのようなトレーニング設計が、サッカーにおけるスキル向上に寄与する。
つまり、リフティングが何回できたところで、試合に勝つことに大きな影響を与えることはできないし、コーンドリブルが上手くても、試合に勝つことに大きな影響を与えることはできない。
しかしながら、無意味であるとは思わない。
サッカーが好きになるためのステップとしては、有意義なこともある。
ただ、テクニックだけでなく、スキルも磨いておかなければならず、練習というものがサッカーに繋がっていかなければ、テクニック偏重のサッカーから抜け出すことはできない。
現状は、テクニックをどのように試合で活かすかということに関しては、選手の主体性、感性に依存する側面が強い。しかし、我々日本人は主体性というものの本質を日常、つまり学校教育や家庭教育で育まれることは稀だ。
多くの才能がこの過程で失われている可能性は否定できない。
日本人は団体競技より個人競技が得意
これは、河内氏の「競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか?」に記されているので、詳細は読んでいただきたいのですが、日本人は個人競技、あるいは個人闘争は強いが、団体競技、団体闘争は比較的に弱いというファクトを元に分析されている。
私自身、海外での生活を経験し、日本で外国人リーグでプレーした経験を踏まえると、腑に落ちる部分がある。
私たちは極めてハイコンテクストなコミュニケーション文化を有している。
それ故に、コミュニケーションコストが高い。分かり合うというコミュニケーションがハイコンテクストであるが故に難しい。
個人競技が強くなりやすいのも、他者とのコミュニケーションを深める工数が高いので、自分と向き合い続けて、自分を高めていく方向に向かいやすいのではないかと思う。
自分との対話は、比較的容易だからだ。
これが文化として育まれた結果、「職人」という強力なブランドが生まれ、「オタク」という独自文化が育まれてきたのではないかと感じる。
つまり、対人ではなく対物に向かい、深まりやすい文化的背景があるように感じる。
それが、サッカーなどの団体闘争においても影響し、試合のスキルよりも、ボール扱いのテクニックにフォーカスされやすいのではないかと感じている。
団体闘争であるサッカーは、コミュニケーションなしには成立しないスポーツだから。
※これは仮説で、個人的な意見であり、浅はかな見方である可能性があることを承知の上で読んでいただきたい。
少なくとも、よりよいコミュニケーション文化は醸成できるように感じている。
学校の先生から生徒への一方通行の教育ではなく、対話、ディスカッション、クリエイションをもっと取り入れることでコミュニケーションは育まれ、スポーツの現場にもポジティブな影響をもたらす可能性があるのではないだろうか。
かなりの時間を要するけれど。