サッカーは教えなければならないという大人がいて、サッカーを教わりに来る子どもたちがいる。
サッカーの指導者は何を教えれば良いのだろうか?
リフティングの仕方、パスの仕方、ドリブルの仕方、シュートの仕方…
これら基本と呼ばれるものを一生懸命教えることが仕事になってしまっているクラブが実に多いと感じる。
サッカーの本質は“真剣な遊び”なのです。
基本は“遊び”の中で身につけるもの。
しかし、遊んでいる光景は営利活動をしている以上、見栄え的によろしくない。しっかり教えている指導者、しっかり教わっている子ども…こんな構図ばかりが求められた結果、カタチだけで中身のないものになっているクラブはいくらでもある。
サッカーを教えるのではなく、まずサッカーの遊び方をしっかり教えることが重要なのです。
ブラジルサッカーを日本に伝えた先駆者、ネルソン吉村氏の言葉をご紹介したい。
サッカーの基本は “遊び” で培われる
「とにかく日本に来たら練習ばかりでしんどくてな。しかもみんな下手やし、もお、トーンでもないと思った」
何しろネルソンは、生まれてこの方練習というものをしたことがなかった。
経験してきたのは、草サッカーと呼ばれる遊びだけだ。
そんなネルソンがヤンマー(現セレッソ大阪)では頭抜けたテクニックを持っていた。
というより、当時このチームで基本的なテクニックと称するものを備えていたのは、ネルソンだけだった。
まず、練習はボールリフティングで始まる。だがまだ日本にはボールリフティングという概念さえ真新しいものだった。
「オイッ!みんな、なんでリフティングもできんねん!?」
ブラジルで本物のサッカーを体感した日系移民たちが日本のサッカー文化を育んだ歴史があります。そんな彼らのルーツに迫る一冊からの引用になります。
大昔の話で、現代サッカーの参考にはならないという声も出てきそうだけれど、私はいままさに原点に立ち返る必要性を感じています。
サッカー文化を育むために、サッカーの本質とは何かをしっかりと考える必要があると思います。
サッカーは教わるものではない
ネルソン吉村は三重県上野市のサッカー講習会に招かれた。
さまぎまなボールテクニックを披露した後で、あるコーチが彼にフェイントの型を見せてくれと頼んだとき、ネルソンは困った顔をして、こう言った。
「フェイントの型?だれもいないところでやるの?相手がいないとボクはできないよ」
小さいころから、相手とボールを取り合う中で、自然にフェイントをかけ、相手をかわしてドリブルするようになった吉村にとって、相手なしで型を示すということは、とても難しい話だった。
サッカーを“教わって”成長してきた当時のコーチたちにとって、遊びの中で、自然にドリブルやフェイントを身につけた日系2世は、やはり一種のカルチャーショックだったに違いない。
引用元:サッカーのために最初にブラジルから来日、大きな衝撃を与えた日系2世 ネルソン吉村大志郎
サッカーはクリエイティブなもの
現代サッカーはより理詰めになり、自由が入り込む余地がなくなった。
選手はアスリート化し、よりスピーディで正確なテクニックが求められるようになった。戦術もより高度化し、創造性よりも論理性が重視されるようになった。
そんなトレンドに多くの育成年代のクラブも同調する。
つまり、育成年代である子どもたちにさえ、創造性より論理性を求めるようになってきたと感じる。
創造性がなければ論理性を発揮する場面などないのに…
サッカーはクリエイティブなものだから楽しいのです。
創造性あるプレーは遊びの中で育まれ、磨かれていくもの。
私は、サッカーをする子どもたちの全てがサッカー選手を目指すべきだとは断じて思わない。
サッカーをする子どもたちの全てがサッカーを好きになってほしいと思う。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…