日本サッカーには特有の問題がある。罰走や体罰という理不尽な指導、高校サッカーが引き起こす弊害、部活動問題などサッカー先進国では考えられないような問題が日本には多くある。そんな「鎖国」日本をアップデートさせることを志す1人の若者によって始まった連載企画「日本サッカーを開国せよ」。
第2回目のテーマは「坊主廃止論-坊主は指導者の思考停止-」
文:小谷野拓夢
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〇目次
①日本における坊主の歴史
そもそもなんで日本では、「悪いことをしたら坊主」という文化があるのだろうか。
日本に坊主が広まったのは、軍人の影響によるものが大きい。そして軍人の坊主が一般化し、学校教育でも男子の坊主が基本となった。その後1990年代に、「坊主は人権侵害だ。」という問題提起によって坊主強制制度は薄れていった。以上が日本で坊主が広まった簡単な流れである。
しかし、これは坊主が広まった流れであって「悪いことをしたら坊主」というものを説明するものではない。というのも調べてもこれといった根拠のある情報が出てこなかったというのが本音である。よってここからは私の推測になる。
昔、インドや中国、日本では刑罰の一つとして「坊主」があったようだ。このはるか昔の刑罰が、今日の日本に残っていると考える。過去には、某アイドルが自分への戒めとして坊主にしてしまったこともある。このニュースが表すように、日本には「悪いことをしたら坊主」という文化が根強く存在していることが分かる。
②坊主がもたらすデメリット
坊主がもたらす最大のデメリットは、坊主にすることで問題を解決したと勘違いすることである。
下の図を見ていただきたい。問題が発生した時、それを100とする。100を解決する方法として指導者は、「坊主」を選択する。しかし、罰を与えただけで問題は解決されていない。これが一番の問題だ。問題が起こった時に大切なことは罰を与えることではなく、同じ問題がまた起こらないようにすることではないだろうか。
日本の指導者にはこの「本質」の部分が欠けているように思える。
③大切なのは罰を与えることよりも…
上述したように指導者がしなければならないのは、選手に罰を与えることよりも選手が同じ問題を繰り返さないようにすることである。
選手を本当に育てたいと思うなら、その選手と向きわなければならない。だから、問題発生→坊主で終わることはしてはいけない。そして、選手が坊主になるのが嫌だからといってルールを守っていると、そのルールの存在意義を考えなくなる。本来ルールとは、組織のモラルを保つためやや目的達成のためにあるものだ。坊主にならないためのルールではない。
坊主という罰を与えるだけでは、選手は成長しない。
本当に選手を育てないのなら、罰を与えることよりもその選手が何故問題を起こしてしまったのか、そして同じ過ちを犯さないようにするにはどうしたらいいのかをひたすら考えることである。それが指導者の責任である。
よって坊主は指導者の思考停止を表しているのである。
④まとめ
自分も指導者として活動している身として、選手をプレイヤーとしても人間としても成長させる責任があると思っている。特に育成年代の指導者にはその責任が大きくなる。
その責任をもつというのなら、坊主という簡単な罰を与えて終わるようなことはしないでほしい。
繰り返すが、大切なのは同じ問題を起こさないようにすることだ。つまり、選手が成長することである。だからこそ、私は坊主廃止論を提唱したい。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…