私は日本のサッカー文化を育む上でもっとも大切なのは、育成年代の環境だと思っています。育成年代、とりわけジュニア、ジュニアユース年代の環境をつくる指導者に求められるのは柔らかさだと思います。
日本人の特徴として、「型」を大事にするというのがあります。
しかし、私は多くの場面でこの「型」に捕らわれて中味が抜け落ちてしまう指導者を多く見てきました。
先日、とある中学生の試合を観ていたとき、ハーフタイムに選手たちにコーチはこんな話をしていました。
「サイドバックにボールが入ったとき、まずFWにボールを入れる。そしたらサイドハーフとセンターハーフの2人がフォローする。このカタチ(型)を徹底してやらなきゃ。」
前半、このチームの選手たちはこのカタチを一生懸命試みているように見えました。コーチの指示に忠実に…
サイドバックにボールが入ったら、FW目掛けて長めのボールを入れる。最初はそれができていた。しかし、その一方的な攻撃パターンを相手に読まれると当然パスは通らなくなる。そんな状況を踏まえてハーフタイムのあの指示は愚かだと思うし、なにより見ていて先が読めるプレーの連続はサッカーでもなんでもないのです。
昔、鹿島アントラーズを指揮していたトニーニョ・セレーゾ監督がインタビューでこんな話をしました。
日本の指導者は、サッカーを約束事に落とし込んで教えたがる
「日本の指導者は、サッカーを約束事に落とし込んで教えたがる」
「例えば、Aにパスが渡ったら、サイドからBが上がってきて、Cがサポートに回る。こういうふうに、何かと約束事を作ろうとするんだ。でも、考えてみてほしい。サッカーは敵味方が入り乱れた中で、ボールを足で扱うスポーツ。不確定な要素が多いから、約束事どうりにいかないことの方が多いんだ。だから約束事を設けすぎると、うまくいかないときに選手たちがパニックに陥ってしまう。教えすぎると逆効果にしかならないんだ。でも、こういう教え方がまかり通るのも当然かもしれない。約束事がきっちり守られることで、日本の社会は成り立っているからね。」
こういう国に住んでいると、人は何をするにも計画を立てて物事を進めようとする。トニーニョ・セレーゾの目には、この計画万能主義がサッカーにも持ち込まれているように見えるというのだ。
ブラジルとイタリアは、世界でもっとも計画万能主義から程遠い国だ。この2カ国がワールドカップ最多優勝と2位に君臨しているという事実が、サッカーの本質を物語っている。
【参考文献】日本サッカーはなぜシュートを撃たないのか? (文春文庫)
約束事を設けすぎるとサッカーは機能しなくなります。サッカーというゲームの本質を理解していれば約束事を決め過ぎたり、「型」にはめすぎてはいけないということがわかるのです
「型」が往々にして想像性を殺し、好奇心までも奪ってしまう。
型にはめるのではなく、型をつくらせる
型というのは本来、中身を伝えるためものです。
しかし、何のための型なのかも伝えることができない指導者があまりにも多い。
そして型は、はめるものではなく、その人がつくるものです。
自分のプレースタイルは自分でつくる。です。
私は、型にはめられるのが嫌いだ。これまでも常に自分の型をつくってきた。
そして、誰かを型にはめるのも嫌いだ。 それ故に社会不適合なのだと思うし、そんな自分の居場所をみいだすのも本当に大変だった。でも、決して後悔はしていない。
自分の人生は自分でつくるという強い信念は揺るがないからだ。
サッカーに関しても同じだ。サッカーに正解はない。サッカー観は自分で養う。誰かがつくったメソッドやスタイルに迎合するのは簡単だけれど、それは自分のスタイルにはなりえない。サッカーは常に変化する。人生も同じだ。人間はもっと柔らかく可能性に満ちている。
型にはまる必要はなく、大切なのは型をつくることなのだ。
だからこそ、子供たちには自分たちの型をつくってほしいと思う。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…