想いに寄り添えること
サッカーを教えるということ… 人を育むということ… これらのテーマと向き合ってきて大切だなと思うことがある。それは、”想い”に寄り添うことだ。
その子の想いを、その子の本質を知ろうとすることからすべては始まる。人間という生物の本質を知らずして人を育てることなどできない。ダメな人間からも学ぶことができる人間はいる。ダメな先生、指導者からも学べることはある。でも、それができる人間は勝手に育つ。そういう性質を元々持っている。しかし、多くの子供はそうじゃない。
ダメな大人が勘違いしてその子を育てたことを自分の手柄のように言うけれども、そうじゃない。こいつは俺のおかげでプロになれたという人間に真の指導者はいない。「あいつは勝手に上手くなった」そう言える人間でありたい。その子の想いに寄り添える人こそが真の指導者なのだと思う。
”教えること”よりも”生き様をみせる”
”教えること”ではなく”生き様をみせること”が大切なのだと思う。指導者は間違ってはいけない完璧でなければいけないと考えてしまう。完璧であろうとすればするほど固くなり、弱さやダサさを覆い隠すことになる。我々はもっと人間としての弱さを自覚し、それを素直に晒すことが大切なんだと思う。
不完全さは美しい
不完全さは実はとても素晴らしいことなんだと私は本当に最近気が付いた。不完全だからこそ人を好きになるし、人に優しくできるし、あらゆるものに寛容になれる。不完全さをしっかりと認識した上で自分と向き合う必要があるし、他人と向き合う必要があるし、社会と向き合う必要があるのだと思う。完璧を装う人間に魅力のある人間はいない。魅力的な人間は、常にありのままの自分をさらけだし、圧倒的に生きる。
きみはどう生きたいのか
サッカーを教えることは”生きること”の本質を伝えることだと思う。人が自分で考え、自分で感じ、自分で行動できるようにいかにアプローチするかということだ。コーチの指示に従うことが優秀な子どもなのでは決してない。
誰かの指示がなければ何もできない。誰かに決めてもらいながら生きることしかできない。それではピッチでは輝けないし、人生を生きることはできない。「きみはどう生きたいのか。ピッチの上で。そしてこの地球上で。自分の足でしっかり立て。歩け。走れ。」それを言葉に発することではなく、想いを発する人間が本当の指導者なのではないかと思う。
サッカーは自分で感じたことを表現するゲームだ。私は人生も同じだと思う。サッカーも人生も自分を上手に表現できるようにならなければ面白くならない。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…