圧倒的な魅力のある選手を邪魔しない環境
圧倒的な魅力のある選手が醸成される環境が日本には少ないのだと思う。
日本にも圧倒的な魅力に溢れた人間はたくさんいる。
サッカーにおいて圧倒的な魅力のある人間というのは自分を表現できる力のある人間である。自分を解放できるやつ。そういうやつは小さいころから自分を制御できない傾向にある。感情的で感覚的なやつだからどこに行ったって問題児扱いされる。そういう子にボールを蹴らせたら得てして物凄いポテンシャルを魅せる。しかし、多くの大人はこのような子達を強制し矯正しようとする。正しく向き合えない大人がきっとかなりの数いる。そういう子と向き合うことはまさにむき出しの自分を見せつけてやらねばならないし、その子を認め、またしっかりと否定できなければならない。忍耐力が必要だ。
多くの場合、このような圧倒的な個性はサッカーを途中でやめてしまう。
彼らのような才能がサッカーを楽しんで続けられる環境が日本には少ないのだと思う。
彼らの表現する場所を奪ってしまっているのではないかと思うことがある。
ルールに縛られ、外からうるさい声に邪魔されてサッカーどころじゃない。そんなサッカーに嫌気がさしてしまう。きっとこういうケースは多い。
サッカーは論理を破壊し、直感は論理を凌駕する
扱いやすい選手で構成されたチームに魅力はない。サッカーは自分を表現することがなにより大切なのである。いつもお利口に監督の言うことを聞いてばかりいるやつらにピッチで圧倒的な表現ができるとは思えない。
「だまって見てろ!」「いいからボールをよこせ!」それくらい言えなきゃダメだということをもっと大人が許容しなきゃいけないのではないか。
理屈じゃないんだ。俺はこう感じるんだ。ということをもっと出させていい。
サッカーは論理を破壊し、直感は論理を凌駕する。
波を感じるということ
完璧な人間がいないように、完璧なサッカーは存在しない。
人間の精神はいつも波がある。そしてサッカーも波がある。
いい感じの時もあれば、ダメな感じの時もある。
流れが良い時もあれば、流れが悪い時がある。
ひとりの人間に波があるように、ピッチで表現する選手すべてに波がある。
どうやって波にのるか、どうやって波を超えるかはひとりひとり異なる。
誰かが波にのれない時、誰かが助けなければならない。時にはふたりまとめて大波にのまれるかもしれない。サッカーはそんな不確定要素に満ちている。
論理が通用しない瞬間が必ずやってくる。そんなときに頼れるのは直感だ。
ガチガチに固めた論理よりも、しなやかで柔らかい論理、身体をつくることが求められるのがサッカーだ。
涙が出るほど表現しろ
想定を壊すもの、予想を超えるもの、論理を破壊するものは、常に人間の内にある”みえない感情”が解放されたとき、それが適切に表現されたとき、なんだと思う。
涙が出るほど表現しろ
サッカーも人生も
命は守る為にあるのではなく
命は使う為にある
制御するのではなく
解放しろ
自分の心はそう言っている
— KEI 整える。準備の1月 (@Keivivito) 2016, 1月 31
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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