大人になってから学ぶサッカーの本質とは

サッカーの本質を追求するWebマガジン 考えるよりも感じることを大切に 美しさとは何かを感じる心を大切に 大切なものを失わない為に書き綴る                    ※当ブログはプロモーションが含まれています

便利過ぎて整い過ぎた社会がサッカーを本質から遠ざけている 

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日本は贅沢病にかかっている

大事なのは安定していること。整っていること。統制がとれていること。味方が必ずいるべきところにいなければならないこと。ミスはしてはいけないこと。リスクはおかさないこと。このような条件が揃わなければ良いサッカーができないと思い込んでいる人が多い気がする。私は日本という社会は贅沢病にかかっているのだと思う。日本という国が便利過ぎて、贅沢過ぎるのだと思う。それ故、失われていることがある。

我々は世界屈指の便利大国に住んでいる。5万を超える数のコンビニが日本にはあるという。そのコンビニがあれば生活に困ることはほとんどないし、安くて美味しい店がいたるところに存在し食事にも困らない。我々はまぎれもなくその恩恵を受けて日々を生きている。海外ではタクシーに乗るとき、トゥクトゥクに乗るとき、買い物をするときは常に駆け引きが発生する。すんなり物を買うことが日本のようにできない。レストランに入ればチップも払わねばならない。やはり日本は便利なのだ。

そんな便利過ぎる社会はサッカーを本質から遠ざける。

野性的な感覚、狡猾な駆け引きが便利過ぎる社会には不要なのだが、サッカーでは求められる。”社会的に正しいこと”と”サッカーの正しいこと”は全く異なるが故に多くの指導者達は苦しんでいる。

 

想像性や創造性の枯渇

ボールがないとサッカーができない。グラウンドがなければサッカーはできない。シューズがなければサッカーができない。条件が揃わないとサッカーができない状態なのではないだろうか。一方で恵まれない国ではボールがなければ自分たちでつくるし、グラウンドがなければ道路でやるし、シューズがなければ裸足でやるのである。常に自分たちで創るのである。それだけじゃない情報もいつでも手に入る。ユーチューブをクリックすればメッシのスーパープレーがいつでも観れるし、バイエルンの凄まじいロンドもいつでも観れてしまう。しかし、私はこれは一概に素晴らしいこととは思えなくなってきている。

溢れる情報が想像する時間を奪っている

これに尽きる。みんなが面白い物をいつも探している。面白いもの、良いものを吸収するために情報を検索し続ける。サッカーで言えばネイマールのドリブル映像がタイムラインに流れてきた→それを何度も観て練習する。これは素晴らしいことだとは思う一方で、今の子供達、大人もそうだけれど、ぼーっと想像する時間はあるの?と感じている。想像することなしに創造はすることはできない。

今求められているのは情報を入れる時間よりも、自分の内にある情報を出す時間なのだと思う。それはきっと創造することに繋がる。

便利過ぎて整いすぎた社会はサッカーを本質から遠ざけている。

社会が人間をスポイルする過保護な状態なのかもしれない。

 

サッカーの本質を追求する旅はつづく… 

 

私がサッカー教室で指導するとき、必ずしも全員をサッカー好きの優秀な選手に育て上げようとは思いません。教えるのは、聞きにくる子どもだけでいいと思っています。 聞こうとしない子に、「なんでそっちを見てるんだ」と怒ったり、「前を向いて、行儀よくしていなさい」などと強制する必要はないと思います。 子どもは、いったん興味を持ったら、もうしつこいことこの上ない。そうなれば、多少きつく教えたり、ときにはしごいても、全部プラスになる。 だから、聞きにきた子には「教える」、聞きにこない子とは「遊ぶ」。 これを原則にしています。釣りと同じで、針にかかるまで、興味を持つまで大人が待ってあげることが、小学生の段階ではいちばん大切だと思います。

子供にサッカーを教える前に読んでおくべき5冊 - 大人になってから学ぶサッカーの本質とは