サッカーの魔力は感情の解放
ペルー対アルゼンチン この試合は2010年の南アフリカW杯の南米予選
ペルーのホームで行われた一戦。0−1でアウェーのアルゼンチンが逃げ切るかと思われた最後の瞬間にペルーの同点ゴールが生まれた場面。
この映像をはじめてみたとき、ああこれが本場のサッカーなんだ… サッカーに注ぐ感情の量が違う。圧倒的な感情の解放… これがサッカーの魔力なんだと改めて思った。
下記映像の50秒から、メッシからボールを奪い、バルガスが左サイドを感情的なドリブルで切り裂きゴール前のファノが押し込んだ瞬間の感情の爆発。
"¡Con los huevos de Vargas!" | El gol de Johan Fano a Argentina
サッカーへの情熱が土地に宿っている
実況がまた凄まじい。
「recupera vargas! Va vargas! enpuja vargas! sige vargas! lucha vargas! paso vargas! que bien la hizo vargas! ... Goal! Goal! Goal! Goaaaaal ...」
「もちなおせバルガス!行けバルガス!押せバルガス!そのまま行けバルガス!戦えバルガス!抜けバルガス!最高だバルガス!ここで同点だ!そこだ!ゴール!ゴール!ゴール!ゴーーーーール!...」
感情を解放することこそがサッカーなのだ。実況もファンも、すべての人間がモラルを忘れて感情を解放する。それはもうしょうがないことであると。
そういう許容が南米にはある気がする。感情表現こそが人間が”生きている”ということであると。彼らの”生き様”をみているといつも思うのである。
サッカーはもっと感情的にやっていい
南米という土地にはサッカーへの情熱が宿っている。
どんなに小さな試合でも彼らは熱くなる。サッカーに気持ちを込める。
これは日本では過剰だ、やりすぎだと受け止められる。
南米では日本人は大人しすぎる、冷めていると思われる。
海外で、とりわけ南米でプレーしてサッカーにやみつきになる選手の多くは自分を解放することの快感を覚え、その虜になる。レベルが高いとか低いとか関係なしにサッカーが楽しくてしょうがないんだという南米サッカーの虜になった人間の話をよく聞く。
凄い選手はピッチでより感情的にプレーするように思う。
世界の一流ストライカーの多くが南米の選手というのもそこなのかなと私は思っている。
南米の選手じゃなくても、イブラヒモビッチやルーニー、バロテッリ、ロナウドだってみな感情的にプレーする。圧倒的な上手さのベースにあるものは表現力なのだと思う。自分を解放する力なのだ。
世界の一流の選手は本能を解放しながらも自分を制御できる
自分を上手くコントロールできる選手は本能的なものを制御されていないのだと思う。
そして自分の良さを出す術を知り、弱点を隠す術を知っている。その部分を自分で制御できる。このあたりはまた時間をかけて書こうと思う。
サッカーの本質を追求する旅は続く…