後編は”サッカーの伝え方”について記したいと思う。
前編はこちら
サッカーの教え方の本質
スペインのレアルマドリーの育成コーチのナチョが日本に来たときにアシスタントをやることになったんだけど、2対1(オフェンス2:ディフェンス1)でディフェンスの後ろの線まで渡るという練習。ドリブルでもパスでもなんでもあり。小さい子は2対1のメリットの活かし方がわからないからドリブルで勝負しようとする。そこでドリブルもいいけどパスもあるよということを伝えてくれってナチョは指導者たちに言ったの。
スペインの子たちと日本の子たちの違い 指導者の違い
日本の指導者にそれ言ってやってもらったの、そしたら日本の子は言われたとおりパスだすの、そんな光景をみてナチョはこう言ったの。
スペインの子に「パスもあるよ」って言うとパスを出さないで抜こうとする。いまパスあるよって言ったよねと子供達に言うと、「だってそれディフェンスも聞いてるじゃん。パス出すと思ってるじゃん」って言う。
サッカーの本質を指導者が理解した上で、子供に練習の意図をしっかり伝えているから子供も練習の意図が感覚的に理解できないような練習は「嫌だ。そんな練習意味ない。つまらない。」とハッキリ言うんだって。これが文化の違いだよね。
スペインと日本はサッカーの文脈が違う
スペインはサッカーの本質がその土地に宿っている。日本はというと、まだまだサッカーを表面的にしかみることはできていない。だからこそ”サッカーの本質とは”という問いからはじめなければならないのだと思う。サッカーの本質はとても一言では説明しきれないのだけれど、ボールをゴールに入れるまでの過程に11人の相手がいて、それをどうにかしなければゴールできないのである。人間と人間の知と肉体の駆け引きで勝たなければならない。相手に頭の中を知られてはならず、身体の動きすらわからないようにしなければならないのである。
本質はそのあたりにある。
スペインの子は指導者の言葉の本質を考えて、目の前の相手に勝つために必要なことを表現する。
日本の子は指導者の言葉のとうりにプレーする。目の前の相手に勝つという本質まで辿り着かない。
サッカーの本質を理解することなしに”教え方”も”伝え方”もくそもないわけである
鬼ごっこをやればいいのである。相手に触られないためのあらゆる工夫を勝手にするのである。ドロケーをやればいいのである。チームで勝手に戦略を考えて勝つために必要なことをやるのである。相手の捕まえ方や逃げ方なんて教えないように、サッカーも教えなきゃいけないことはそこじゃないのである。伝えるべきことは”自分で考えろ、自分で創造しろ”ということであり、自分で考えるための種をまくことであり、創造するためのヒントを散りばめておくことなのではないだろうか。
深夜2時過ぎにまでおよぶドリブルデザイナーとの対話の中で多くの気づきと勇気をもらった。また近いうちに話のつづきをする日がくるだろう…
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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