その人にしか持てない”生き様”にふれたとき
美しいショートムービーのような12月を過ごしている。人との出会いが紡ぎ出す濃密な物語はひとつの作品になりうる。人の生き様に触れた後の内証の時間は新しい自分の物語を創作する時間だ。一瞬一瞬の儚くも美しい瞬間の中に自分の人生の幸せのヒントが隠れている気がする。
— KEI 走り抜ける12月 (@Keivivito) 2015, 12月 22
2015年12月。
世界の何処かを旅しているかのような日々を生きている。
会いたいと思っていた人との出会いが連続した魔法のような12月。
私は不思議な充実感、多幸感に包まれる瞬間を生きながらも深い内証の時間を欲していた。
それぞれの人がそれぞれの世界の中で、それぞれの物語を紡いでいる。
その一瞬の交わりの瞬間、ほんの一瞬なのだけれど、濃密で味わい深いものだった。私は言葉にならない多くのものを受け取った。
そして私は私の物語を紡いでいかなければならない。
捉われることなくストーリーを創ること
自分の感性に忠実な人の醸成する空気感。それは常に独特でその人にしか出せない言葉や振る舞いがつくりだしている。
人間には言葉にならない”なにか”が息づいている。
その人の大切にしているもの。
それは目に見えない内側から溢れでる”なにか”であり
身につけているものであったり、その身につけ方だったり
歩き方だったり、語り方から感じることができる。
私が出会った人たちは”捉われていない”人たちだった。
自分の世界を持っている人は”捉われない”
捉われることなく自分のストーリーを描くということ。自分のストーリーを創ること。
本当に強く、優しい人はただ存在することを認めてくれる
自由に生きれば良いと思う。
しかし、本当の自由とはなにかを深く内証できない人間に自由は訪れないということを知った。自由とは好き勝手、本能のままに生きることとは違う。
自由の本質は尊重なのだと思う。尊重するということは、どんなに不完全なものも認めるというということであり、それはつまり見守るということであり、許すということなのだと思う。
なにかを許すことができない社会は堅く息苦しい。
許すことができないと、許してもらうこともできない。
人生は物語を創造することなのだということ
自由の意味を知る人たちとの対話の中で感じたことである。
物語を創造することこそが人生なんだと。
素足で日本中を旅するフットボーラーと出会った。
この12月の寒空に道で裸足でリフティングをしていた。
この日本という堅すぎる社会において、なんて柔らかいやつなんだと思った。
そしてこういう青年こそが希望なのだと本気で思っている。
正解は自分で決める。いや自分の答えは自分で創るのだ。
いまがどんなに苦しくても、どんなに孤独でも、どんなに悲しくても
答えを自分で創る気持ちさえ持っていれば”生きる”ことができる。
誰にも流されない、自分だけの物語を紡いでいくこと。
きっとサッカーの神様もそんな人間に微笑む。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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