自由にさせてあげること
何かにチャレンジしようとしている者に対して多くの大人は後押しをしよう、背中を押してあげようと考える。では、どのように後押ししているだろうか。
下記の文章を読んでほしい。私はこの文章を読んで、大人の在り方が変わらなければならないと感じた。
電車を待っている間、中学生くらいの女の子が、ホームで踊っていた。真剣な目で、何度も何度も同じ動きを繰り返していた。音楽を聴きながら、振り付けを確認しているようだった。このあと、ダンスの練習があるのか、何かの本番があるのかはわからない。
が、少なくとも、ホームで他人の目を気にすることよりも、彼女にとっては、大切なものがあった。うまくなりたい、うまく踊りたい、という気持ちに、素直に向き合っていた。微笑ましかった。
日本社会に蔓延する、「やりすぎたときにブレーキをかける風潮」が嫌いだ。「意識高いね笑」「真面目だね笑」 ぼく自身、何度もそんな言葉に悩んだことがある。バカにされたり、批判されたりして、「ちょっとおとなしくしてようかな」と、やりたかったことをやめたこともある。
情熱的に生きるって、人としてとても大切なことじゃないか。せっかくその人が見つけた「アツくなれるもの」を、心ない一言で潰しちゃいけないだろうって。「ここは踊る場所じゃないよ」なんて言うんですか? そんなことわかってるよ、でも踊らせてあげなって。
本当の強さとは、遠くへ行ってしまう人を繋ぎとめておくことじゃなくて、その人がもっと遠くへ行けるように、自由にさせてあげることだと思う。「気をつけろ」「危ないからやめろ」じゃない。「精一杯やってきな」「楽しんできな」だ。「輝いてきなさい」であり、「あなたの美しさを見せてきなさい」だ。
後押しというのは自由にさせてあげること
一生懸命プレーする選手、ゴールに向かってチャレンジしている選手に対して多くの大人は後押しの仕方が間違っている。と私は感じている。
いまなお少年サッカーを観に行くと多くの場面で大人の価値観の押し付けがあり、個性なんかよりルールを尊重させることに重点がおかれている。
子供たちはチャレンジする機会よりも大人にやらされていることの方が圧倒的に多い。自分のやりたいプレーじゃなく。コーチがみたいプレー、パパやママの望むプレーに支配される。その子のやりたいプレーは一体なんなんだろう。表現したいことことが表現できない。この状態が嫌になってサッカーをやめてしまう子もいる。
もっとその子が表現しようとしていることを見てあげなければならない。
本当の後押しというのは、その子の自由にさせてあげることなんじゃないかと思う。
「この生き方が正しい」なんて、そんなことは決めないで、いろいろでいい。困るときは、みんなで困るしかないんです。オタオタするなら、みんなで一緒にオタオタするしかない。
— 宮さん(宮崎駿)bot (@miyasan_bot) 2015年11月14日
いままさに多くの局面で”許すこと”が求められていると思う。
とりわけ大人は子供たちにもっと”赦すこと””見逃すこと”が必要だと感じている。
徹底してルールに厳しく、ルールを脅かす者を許せない社会は表面的な治安を守っているかもしれないが個人が生き難い。そして誰かと同じようにしなければならないという同調圧力を生み出す。同調圧力は自分の生き場所を奪う。結果的に多くの自殺者を生みだし、精神病患者を多く生みだしている。
人間社会には、「こうあらねばならない」と恐怖を植え付ける仕組みにあふれていますね。まずは「比較」から解放されることが重要ですね。どうしたら「比較」から解放されるのでしょうか
— Kei Imai (@Keivivito) 2015年11月18日
「正しい生き方」なんてないのである。
答はそれぞれがもてる。みんながやってるからやることが正解なんてことはないのである。
もっと寛容な世の中になればいい。
もっと許せる世の中になればいい。
サッカーも社会も個人の表現の結集なのである。
その前提を脅かしてはならない。
- 作者:クルベウ/藤田 麗子
- 出版社:ダイヤモンド社
- 発売日: 2021年04月15日頃