ただただ個人の心を尊重したかった
前回、ネイマールの一件について記事にしたけれど、あの記事とは正反対の意見は多数存在した。相手を試合で凌駕しそれで尚、終了間際にヒールリフトをする行為は相手を侮辱していると思われてもしかたがないじゃないかと。私はそう見える人がいることも理解できるし侮辱することは最低のことだとも思っている。しかし私にはネイマールが侮辱するためにやったプレーには見えなかった。ただそれだけだ。そう見えたか、見えなかったか。ただ、私が言いたいのは、ネイマールが悪いという圧倒的な感情の波がネイマールのピュアな心を見えにくくさせてしまっていると感じた。それゆえこのような記事を書いた。
自分の言葉で語る人とは許しあえる
圧倒的多数の正解の波にのまれて、一人の個人が矯正されていくのが世の常だ。この流れは一人の人間の心を殺すことになりかねない。
著名な◯◯さんがこう言ってますが?とか、多くの人はこう思ってますがいかがですか?的な話に持ちこんでくる人に言いたい。ところであなたの意見はどこにあるのか?と。もっと自分が感じたコトを大切にしましょうよ。と
— KEI 創作の9月 (@Keivivito) June 3, 2015
見え方や考え方はひとつじゃない。様々な見え方があって、それだけ様々な意見がある。私の記事に反発する声は当然あって然るべきだと思うが、その人の言葉でしっかりと伝えて欲しい。バルサのエンリケはネイマールは未熟だと言ってるがあなたはどう思うか?などと聞いてくる人間がいるが、自分の言葉で語りかけてこない人間などを相手にするほど私は暇じゃない。私のサッカー仲間の多くはその人の意見をその人の言葉でしっかりと伝えてくれた。意見は違う。でもそれがサッカーであり人生だ。お互いの意見を尊重するだけだ。
他人も自分も殺してはいけない
私は人の心を大切にできる人間になりたいと思っている。しかし、それ以上に自分の心を大切にできる人間になりたいと思う。愛する彼、彼女がいなきゃ私が成り立たないのは幻想で、私が彼、彼女を愛しているから私が成り立っているのである。人生の物語の主人公は私しかいないはずなのに、なぜか物語の主人公が自分以外の誰かになっている人が多いと感じる。誰にも嫌われないように生きるには己を殺すしかない。他人の目を気にして生きることは他人に自分の幸せを依存することに他ならない。
ひとりの人間としてピッチでどうありたいのか
私はこの言葉を自分に問う。そしてサッカーをする子供たち、そして仲間に問う。ピッチ上でどう自分を表現したいのか、どのような人間でいたいのかということが出発点だ。その問いに答えるのは自分しかいない。誰もが己の答えを導き出さなければならない。しかし完璧であろうと思ってはいけない。どんなに頑張っても人間は不完全である。強さも弱さも全て表現できる人間でありたい。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…