子供にサッカーを伝える前に考えておきたいこと
サッカーを伝える側になる前に考えておきたいことがある。”サッカーの専門家”としてだとか、”大人として”だとかは二の次で、ありのままの自分を見せる勇気を持つことが本当に大事だと思う。大人になると社会のよくわからないルールや概念に知らず知らずに捕らわれていて、普段外で見せている自分は実は常に自分以外の誰かから見た”良い人”だったり”カッコイイ人”を演じていることが当たり前になってしまっていたりする。そういう人は試合会場で”タバコを吸いながら子供に説教をしたり”、”ベンチから選手をゲームを操作するように扱う。” 俺って指導者っぽい。とか思っているんだと思う。今のは極端な例だけど、そもそも”指導者っぽくするとか”、”〜っぽくみせる”から自由になりたいと思う。肩書きなんて本当は邪魔なだけだ。
サッカーを伝える人になる前に”ありのままの自分”でいること
30歳を過ぎてものすごく感じるんだけれども、本当の自分の姿をさらけ出して生きている人は本当に少ないと感じている。自分も含めだ。本当はこうだ!と思っているのに、どこか他人の目を気にして本当のことが言えない自分がいたりする。大人でも子供でも真実を言える人は自分に素直なんだと思う。自分に素直な人間は魅力的だ。
弱さも醜さも全部ひっくるめて、自分が自分であることを誇る。とてもじゃないけれど誰かのお手本になるような生き方なんてできないけれど、それでも「自分みたいな人間がひとりくらいいてもいいじゃないか」と開き直って、自分が自分であることに堂々と胸を張る。きっと、そこからだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) May 4, 2015
真実の姿とずれていたり、伝え方が間違っていたら、絶対に伝えたいことは伝わらない
真実の姿とずれていたり、伝え方が間違っていたら、絶対に伝えたいことは伝わらない http://t.co/rNee1xlNWz
これはとっても大事なことだと思う。他人の目、社会の目が介入しない真実の自分をさらけ出さないと絶対に伝えたいことは伝わらない。
自分が真実だと思っていることを他人の目を気にして伝えられなかったり、誰かとても有名な人のメソッドや理論を無条件に(”よくわからないのに”や”ちょっと違う気がするのに”)伝えようとしても本質は伝わらない。表面的な情報が流れるだけで出来上がるものもガラスのように脆い。
大人がサッカーを楽しむ姿をみせること
親と一緒にやる、とか、親がやってる姿を見せることができる、ということが、それじゃあ、自分も、と思う動機付けになっているのかもしれない。叱咤激励ではそれがない。
#nhk24
— ココダケスタッカート (@kokostac) May 5, 2015
サッカーのコーチや監督はサッカーなんて巧くなくて良いんです!サッカーを超楽しむ姿をみせられることがなにより大切だと思うんです。ボール一個あればヘタでも楽しいわけです。
教えようとする行為は時に暴力になるということ
「多様性を声高に叫ぶよりも、個人が自分を確立すること」だと思った。自分の価値観を持つことは素晴らしいことだとは思うけれど、それを他人に押し付けた瞬間に暴力になる。自分が考える多様性を他人に要求するのではなく、自分が思う多様性の中を「自分が」生きればいいのだと思いました。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) May 9, 2015
サッカーの本質を伝えるスタンスはこういうことだと最近確信している。
”教える”ではなく”伝わる”ということ。
伝えよう伝えようとするとなぜか伝わらない。教えよう教えようとするとなぜか理解してもらえない。仕事で営業していてもそうだ。一生懸命売り込もうとすると拒否られる。相手は攻撃されていると感じるからだ。
自分の考えを他人に押し付けたり、要求したりするとどんなに素晴らしいことを言っていたとしても伝わらないらしい。
映画『ネクスト・ゴール!世界最弱のサッカー代表チーム 0対31からの挑戦』冒頭映像 ...
僕はただサッカーは”教える”ものでも”教わる”ものでもないと思うし、そもそも教えるのは苦手だ。
サッカーの本質を追求する旅は続く。