日本サッカーには特有の問題がある。罰走や体罰という理不尽な指導、高校サッカーが引き起こす弊害、部活動問題などサッカー先進国では考えられないような問題が日本には多くある。そんな「鎖国」日本をアップデートさせることを志す1人の若者によって始まった連載企画「日本サッカーを開国せよ」。
今回のテーマは「先生でありコーチである教師の是非を問う」
文:小谷野拓夢
〇目次
①はじめに
いつものように高校生にサッカーを教えていた時のこと。
「先生!あ、間違えたコーチ!」と選手が言った。
自分はコーチであって先生ではない。恐らくいつもの癖で咄嗟に出たのだろう。
よくあることなのだが、私は違和感を感じていた。
グラウンドでサッカーを教えてくれるのが先生というのは当たり前のようでおかしいことだ。なぜならコーチと先生は全く学校では違う職業であるからだ。校内では先生であり、グラウンドに立った瞬間にコーチになるのか。それとも先生としてサッカーを教えているのか。自分のことを先生と呼んだ選手は、恐らく後者だと認識しており、先生はサッカーを教えてくれる職業でもあると認識しているに違いない。今回はその先生とコーチが混在している現状について書いていきたい。
②先生とコーチの役割
まず初めに先生とコーチの役割を明確にしたい。
先生
先生とは学校をはじめとする教育施設で在籍者に対し、教育・保育をつかさどる職、またその職にあたる人のことである。(Wikipediaより引用)
簡単に言うと、先生は教育をする人であることが分かった。自分も大学にて教職課程を履修しているので先生がどういったものなのかは少しは理解しているつもりだ。特別活動・道徳についてや授業の展開の仕方、教育制度論など教育に関することを幅広く学ぶ。子どもを教育することが先生の役割であることは間違いない。
コーチ
コーチとは、訓練・指導する人。家庭教師や監督などを意味する。(Wikipediaより引用)
コーチの由来は馬車に関係していると言われていて、目的地まで導くのがコーチの役割だとされる。
これまでのことから「先生は教育者」で「コーチは指導者」であることが分かった。では教育者と指導者の違いはなんだろうか。
教育者は「子どもの進む道を後ろから見守り、道を外れそうになったらまっすぐにする者」であり、指導者は「目的地までの道をつくり、子どもをそこまで導く者」であると思っている。
これまでを踏まえて先生とコーチは全く違う職業であることが分かった。しかし、学校という場では一人がこの二つの役割を担っている。これは果たしていいことなのか。
③先生は先生で、コーチはコーチ
先生とコーチの役割が混在すると、一番起こっていけないことが発生する。それは「サッカーを利用して教育すること」だ。厳しい練習や理不尽はその一例だろう。サッカーを教えるというよりかは、教育のためにサッカーを教えてしまうのだ。それはサッカーの本質を見失うことにつながる。サッカーはサッカーであり、それ以上でもそれ以下でもない。教育のための材料でもない。しかし、この点を忘れサッカーを教育に利用する大人が多く感じる。そうなると、いつまでもサッカーがサッカーとして発展することはなくなってしまう。
だが、これは大人が悪いというよりもが先生とコーチの役割を担うような制度および環境に問題があると思っている。事実、サッカーを教えたくない先生だっているはずだ。そして、先生の抱える負担がとてつもなく大きいことも問題である。このような状況では、教育の質もサッカー指導の質も低下してしまう。それが良いことなのかは言うまでもないだろう。
④最後に
これから日本サッカーがさらに発展するには、部活動は重要なキーポイントになると思っている。その部活動において教師は先生なのかコーチなのか。これは各々が考えなくてはいけない問題である。ただ変わらないことはサッカーはそれ以上でもそれ以下でもないことだ。サッカーをサッカーとして教えることを自分自身もう一度考え直したいと思う。すべては日本サッカーの未来のために。
書き手
サッカーの本質を追求する旅はつづく…