読書の重要性は重々承知している。
読書は多くの気づき、知識を与えてくれる。
私も読書をすることによってかなり成長することができたと思う。
しかし、最近になって必ずしも読書が有意義な時間かというとそうでもない気がしていた。本を読むことは楽しいし、新しい何かを学べている気になるものだけれど、それによって自分自身が成長したという実感が得られなくなってきていた。
なぜだろうか。
そんなことを考えていた時に出逢った本がこれだ。
この本を読んで私が感じていた疑問は解消された。
こんなことが記されていた。
反芻することによってのみ、人は読んだものを身につけることができる。
本を読んで、書かれていることを考えることはする。
しかし、それを自分の頭で何度も反芻することはしていないことに気がついた。
知識を得た気になって満足してしまっていたのだ。
それでは意味がないのだ。
読書ばかりしていたらバカになる
大量に、またほとんど一日じゅう読書する人は、自分で考える能力をしだいに失ってゆく。 わたしたちが自分の思考への従事から離れて読書に移るとき、安堵感を得られるのはそのためである。 読書中のわたしたちの頭の中は他人の思考の遊び場であるに過ぎない。
恐らく、私はこの状態に陥っていたのだ。
ただ読書をして何かを学んだ気になっていることは、テレビをなんとなく見ている時間となんら変わらないではないか。
自分の頭で思考する時間がなにより大事なのだ。
「読書とは、自分で考える代わりに他のだれかにものを考えてもらうこと」
共感するだけでは意味はない
本には著者の経験と知識、知恵が詰まっている。
それをどのように自分が消化するかが大事なのだ。
そんな当たり前のことがいつの間にかできなくなってしまう。
人間はマンネリしてしまうものだ。
読書ばかりしていたらバカになるというのは真実で、他者の思考から何かを学びとるためには必ず自分の頭で思考し、それを反芻することが欠かせないということだ。
これは多くのことに当てはまる。
サッカーでもそうだ。
新しいテクニックを習得するには、それを何度も何度も反復して練習することで自分の血肉になっていく。反芻することとイコールだ。
自分なりの捉え方をして、自分に落とし込んでいく。そうしてはじめてオリジナルの表現を生み出すことができる。
大事なのは何度も反芻すること。
こうして人は成長していく。
自分の頭で考えることを止めた瞬間に成長は止まる。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…