柔らかくあるということ
私は小さいころマラドーナを見てサッカーを覚えた。マラドーナのタッチは芸術だった。マラドーナの捉われない在り方がボールタッチに宿っていた。サッカーは人間そのものを表現する。この柔らかい身体の扱い方、柔らかいボールタッチが柔らかくあることの大切さを表現している。
PRIMA DI PARLARE DI CALCIO, GUARDATE DIOECCO CHI ERA DIEGO ARMANDO #MARADONA...Dedicato alle pagine che trattano #calcio... #Rompipallone e #Ilovecalcio...
Posted by Azzurrandia on 2015年12月30日
マラドーナのサッカーは感情表現そのもの
マラドーナは内面に、あまりにも多くの表現したいこと、言葉にならない溢れ出す感情を持ち過ぎていて、 とても自分一人の心中には収め切れないのだ。ボールを持たせてくれればいくらでも身体で表現出来る。自分を表現したい。その衝動に耐えきれないのだ。マラドーナをみているとサッカーは”理屈じゃない”、”感情表現なんだ”と感じる。自分の内から湧き出るものを全身で表現すること。それができる人間は圧倒的な魅力に包まれている。
正しさの強要はダサいということ
私は正しさを強要する人間に魅力を感じることはない。完璧な人間が存在しないように、完璧なサッカー選手も存在しない。
きっと支持するのはその選手、人間が持つ”個性”だろう。それを魅力に感じ、その人間の支持が上がると自分が信じていたことは正しかったと間違っていなかったとなる。そして一方を否定したりする。別に間違っちゃいないのに。巷にはこういう人で溢れかえっている。これははっきり言ってダサい。
人間のもつ根源的な魅力
マラドーナはピッチで圧倒的な強さと圧倒的な弱さをさらけだした。それがマラドーナの圧倒的な魅力だ。私は100%正しい人間を好きになることはない。完璧に整った強いサッカーなどに魅力はないと思う。バルサやバイエルンにだって圧倒的な強さはあるけれど、確実に弱さもある。決して無敵ではない。サッカーは世の中の真理を映し出す。人間の本質を反映するものだ。だから面白い。だから魅力がある。サッカーを楽しむためには自分を表現することだ。どんなにダサくても。どんなにカッコ悪くても。自分の気持ちをありのままに表現できたらきっとメチャメチャ魅力的だろう。サッカーにはそれを表現することが許されている。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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