本質はどこにあるのだろう。本質はなんなんだろう。と、私はいつも考える。
一体真実はどこにあるのだろうか? 本当に大切なことはなんなんだろうか?
私の好きなある本の一節をご紹介したい。
本質を見抜く「感性の磨き方」
審美眼(美醜を見極める能力)を磨くことです。極上の芸術、美しい音楽、美味しい料理。よいもの、美しいものに触れることによって、本物、一流を身をもってしるのです。
審美眼を磨くことは一見すると、世の中や会社、人に対する目利きとは異なると思うかもしれません。たしかに、審美眼を磨いたからといって、必ずしもすべてを見抜けるというような魔法の力にはなりません。
また一朝一夕で磨かれるわけでもありません。技術の習得のように、「いつ」「どうやって」「どれくらいやれば」磨かれる、というようなはっきりとした基礎やものさしがなく、遠回りのような気がするかもしれません。
しかし、審美眼を磨くことを通して、人の心を動かすものに共通する感覚、逆に本物にはない違和感をつかむことができます。
歴史という年月や、多くの人の目利きを重ね、淘汰され、残ったものにしかない、言葉で表現できない感覚でわかる「何か」があるのです。
そのような審美眼は、目利きの源泉になります。さらに経験を重ねることによって、自然と本質を見抜く感性より研ぎ澄まされてきます。
私はこの本質を見抜く感覚を大切にしなければならないと思っている。
いま、世の中には情報が溢れ過ぎている。情報を咀嚼する暇もないほどに人々には時間も余裕もない。なにが真実でなにが嘘か。自分の必要な情報はなにか、不要な情報はなにかを見分ける能力はまさに、本質を見抜く力でもある。これは”生きる”ためにとても大切な力である。
良かれと思ってやっていたことが実は多くの人に迷惑をかけている事態だった。なんてことは結構ある。これは真実を、本質を見誤っているということだ。自分の感性を大切にしないと、他人の感性までも壊す。
美醜の感覚を研ぎ澄ませ
美しいひとと一緒にいれば、自然に人間は美しくなる。醜いひとと一緒にいると、その醜さは感染する。職場や政府の愚痴を言ったり、常に何かに怒っているようなひとは、多分、その人自身が「醜さ」に既に汚染されてしまっている。自分の内面を維持するためにも、醜いものとは距離を置くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 11月 23
なにが美しくて、なにが醜いか。この感覚が麻痺してしまったらダメだ。美しいものにもっと触れて、感じなければならない。美しいものがなんなのかわからなくなると、醜いものに汚染されてしまう。美しいものは、誰にも、なにも強制しない。ただそこに存在し語りかけるだけだ。
サッカーに限らず、人になにかを伝える時、最も大切なのは、その人の感性を育むことだ。きっと言葉すらいらない。
ただ美しいものを見せ、感じさせること。それだけなのだ。
”強く育てなければならない”だとか”賢く育てなければならない”だとか
本当はそんなことからすら自由にならなければならないと感じる。
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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