恥ずかしながら、私は紀里谷和明という人間をこの記事を読むまで知らなかった。
しかし、この記事を読んで紀里谷和明という男の強烈な言葉に圧倒され、その言葉の力強さに魅了された。言葉はそれを発する人間の本質が出る。しっかりと”生きてきた”人間にしか発することのできない言葉というのがあるように感じている。
私はこのインタビューから紀里谷氏の生き様を感じた。
自分の内から湧き出るもの…それがすべて
紀里谷氏がアメリカへ渡ったのは、15歳の誕生日の翌日。氏は、「小学生のときから行こうと思ってた」と語る。若き紀里谷氏をそうさせた“きっかけ”は何だったのかと聞くと…
紀里谷:それは外的要因のことですか?違いますよ。そこに至るには、単純に内から湧き上がるものがあったんですよ。無意味ですよね、外的要因のことを言い出すのは。外的要因の話をすれば、すべて“何かのせい”や“人のせい”になって自分の人生に制限をかけることになる。それは、きわめてつまらないことだと思います。
ただひとつだけあったとすれば、父親の教育ですね。当時から子供扱いされたことはなかったし、常に“自己責任”だと言われてきた。何をやってもいいけど、すべて自己責任。親というより、上司でした。
外的要因というのは自分の内なる声よりも自分の外側の声を優先させるということ。
本当に多くの人がこの自分以外の誰かの声や誰かが決めたルールや常識を尊重しすぎて疲弊し、息苦しい状態になっていると思う。
紀里谷氏は常に”自己責任”だと言われて育ってきたと言う。
自分で決めて自分で行動しろと。
自分で決めたことには責任を持てと。子供の頃からそう言われて育ってきたと言っている。
私たちはどうだろう。
子供たちに責任をもたせているだろうか?
子供だから色々とやってあげないとダメだ。と思い込んでいるんじゃないか。
あれもこれも親がやってあげる。が当たり前になっているんじゃないか。
そんなことの積み重ねは、「自分のことを自分で決められない」常に誰かのせいにして生きていく、つまらない人生を送ることに繋がる可能性があるということだ。
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他人の戯言に振り回されるなということ
――紀里谷さん自身、“すべて自己責任”という考えを現在もたれていますか?
紀里谷:だって、それ以外ないじゃないですか。それ以外に何があります?いま、誰かのせい、社会のせいって、何かしら外的要因のせいにしてる人が多すぎる。それで遂には、何かのせいにしてなんにもできないからって、一生懸命がんばってる人を笑い、攻撃するヤツまで出てきた。
――それは、ネット上においてですか?
紀里谷:そう。なんにもせずに人のせい・社会のせいにするようなヤツらが、ウイルスのような毒素をばらまきまくってるわけです。炎上させたり、“リア充”って言葉で人を笑ったり。で、それに対して今度は“がんばってる人たち”側が気を遣ってしまってますよ。炎上したらどうしよう、リア充って笑われたらどうしようって。 バカじゃないのと思いますね。なんでそんなヤツらの言うことを聞かなきゃいけないのって。そういういらぬ気遣いを子供たちが真に受けちゃって、自分がやりたいこともやっちゃいけないんだって思いはじめちゃうんですよ。なんなのそれ、って思う。
紀里谷:断言してもいいけど、いま日本国内では内戦が起きていると言えますよ。
どういうことかというと、“がんばって行動する人たち”と“しないヤツら”の内戦。“何かに情熱を傾ける人たち”と“それをバカにするヤツら”の内戦。インターネットが普及して以降、ここ10年くらいに起こった日本の衰退は、“ヤツら”のほうに耳を傾けすぎてしまったことによる衰退だと思いますね。 これをしたら、なんか嫌なこと言われるかもしれない、デメリットがあるかもしれない、炎上しちゃうかもしれない…。そうやって耳を傾けすぎて、姿の見えない第三者の言いなりになってる。でも、そいつらは誰なの?なんなの? 実際にそいつらの住所をつきとめて会いに行ったとしたら、きっと笑い転げると思いますよ。こんなくだらないヤツらだったのかって。こんなヤツらの言うことを気にして真に受けてたのかって。 いい加減、目を覚まそうよ。そういうヤツらは、一体何人いるの?人数としては、すごく少数だと思うよ。そんな少数のヤツらのせいでどれだけの人たちが苦しんで、どれだけの人たちの夢がつまれて、どれだけの人たちが傷ついてるんだよ、って話です。
頑張っている人間を嘲笑したりコケにする人間は最低である。何かが間違っているように見えても一生懸命頑張って導き出した結果なのかもしれないじゃないか。どんなに一生懸命頑張っても人並みのモノができるとは限らないじゃないか。世の中に完璧な人間は存在しない。言葉にする行為が得意な人間もいれば苦手な人間もいる。ダメな部分をここぞとばかりに叩く行為は非常にダサい。そしてネットの世界にはそんなダサい人間が幅を利かせているということだ。
自分の内なる声に忠実に
紀里谷氏の話を聞いていて感じたことは、他人の言葉に振り回されてはいけない。
自分の内なる声に忠実にならねばならないということだ。
何か新しいことをやろうとする時、必ず、それを邪魔する人が現れる。その時にやるべきことは、その人を退治することではなく、理解を求めることでもなく、自分が「これだ」と思うことにエネルギーを注ぎ続けることだと思う。自分が嫌いなものではなく、自分が好きなものに使ってこその命だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 11月 19
サッカーの本質を追求する旅はつづく…
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